「善の研究」から生き方の指針のヒントを得る

「何のために生きるのか?」「どうやって生きればいいのか?」「私って何?」と頭を悩ませている現代人も多いと思います。究極の答えは「あなた次第」ですが、西田哲学にそのヒントが隠されているかもしれません。
「善の研究」は、20世紀の日本を代表する哲学者の一人である西田幾多郎(1870-1945)の主要な著作です。
しかし、100年近く前に書かれた作品であり、言葉も現代とは異なった意味で使われているため、原文を読んで西田の言わんとするところを理解することは困難です。
幸いにも、100分de名著 西田幾多郎『善の研究』が西田哲学の要諦を教えてくれますので、ここでは、「善の研究」を生き方の指針の観点から整理したいと思います。
ポイントは以下の通りです。
- 真理の探究には、「あたま」を使うだけでなく、「体」を使った実践が必要(西田の場合、禅)
- 哲学には、頭脳とともに心を育む必要がある
- 「愛」とは、対象に「いのち」を感じる認識のこと
- 「善」とは、大いなる自己(=他者と共にある自己)が開花した状態
- 「神」は人間を超えながら、私たちの心の中にあるもの
- 私たちが生きる意味は、大いなる自己を生きてみるという実験を実践すること
- 自分とは何かを知るためには、外ではなく内(=自分)を深く見つめ直すこと
人間には、事象を理解する「知性」と、存在の理法を認識する「理性」、世界と心で交わりあう「感性」のほかに、人間を超えた存在を希求する「霊性」というはたらきがあります。
「霊性」は、人間を謙虚にします。人間を圧倒する存在によって生かされていることを認識させるからです。
それは、いわゆる心霊現象や「霊感」といったものとはまったく関係がありません。それは西田がいう「神」を認識するはたらきです。人間は、人間を超えるものを真摯に求めることによって真の「自己」になる、というのです。
若松英輔, 100de名著 西田幾多郎『善の研究』, NHKテキスト, 2019
西田にとっての哲学
西田にとって哲学とは、専門家のための学問ではなく、庶民が人生と深く交わるためのものでした。
「何のために存在するのか」を明らかにし、一人でも多くの人にその道を切り拓くことが、西田の試みです。
真理の探究といってもいいと思います。ただ、それは「あたま」だけを使うのではなく、体を動かす「実践」が必要と説きます。そのため、西田は座禅を行い、自己を深く見つめ直しました。
同様に、哲学を始めるためには、頭脳と同時に心を育む必要があるといいます。
「善の研究」で、西田は「知と愛」「善」「宗教」「実在」「純粋経験」という問題を取り上げました。
知と愛

知と愛とは、まさしく哲学(フィロソフィー:「ソフィア=知」を「フィレイン=愛する」が語源)のことです。
「知ること」と「愛すること」は全然違う気がしますが、自分と対象(人やモノ)が一つになろうとするときに、ともに生じる心の作用です。その「愛」とは何か?西田の「愛」の定義は、「対象に『いのち』を感じる認識」です。
道端の花であれコップであれ、人が認識する対象に生命を感じるとき、愛(いつく)しみが湧くと同時に、本当の意味でその対象を「知った」ことになるということでしょうか。
「共に笑い共に泣く」というように、本来異なる二つのものが、異なるままで共鳴・共振するイメージです。これが、西田のいう「一致」です。
この「一致」の世界に損得や利害関係というものはなく、単純に他者の喜怒哀楽はそのまま自分事になります。子供の痛みを親が自分事のように感じる世界観です。それは、「私」が主語でなくなる状態とも言えます。
「私」が主語になると、世界はとても狭くなります。「私」がいない世界は存在しないとも言えます。しかし、私以外のものとの「一致」が深まると、表層意識の「私」ではない本当の自己である「大いなる自己」が現れます。
この状態が、西田のいう「善」の世界です。
善
近代では「個」が尊重されますが、「個」で生きることに慣れてしまうと、他者とのつながりを忘れがちになってしまいます。
西田が言う「善」とは、人々の大いなる自己(=他者とともにある自己)が開花した状態です。
つまり、「善」は元々私たちの中に種として眠っているものです。しかし、覆われて見えなくなっているので、「行為」によって見つけ出し、体得する必要があります。
自他のなかにある「いのち」を感じ、他者との「一致」を深める「行為」が「善」へと繋がります。
興味深いことに、西田は「利己主義」の対義語を「利他主義」ではなく、「個人主義」であると書いています。
西田にとって「個人」とは、つねに「他者」とともにある存在です。だからこそその開花が至高の「善」につながります。
宗教
西田曰く、哲学は、宗教を語ることによって帰結します。「宗教」と聞くと、なんだか怪しげなイメージを持つ人もいると思いますが、「宗」という文字は、人間を超えた大いなるものを意味しています。
「大いなるもの=神=宇宙の根本=私たちの根本」と捉えて差し支えありません。したがって、「神」は人間を超えながら、同時に私たちの心の中にあるものです。
遠く彼方に神を感じつつ、自分自身の内に神を探す行為が、西田が実践した「禅」に他なりません。
大いなるものを求めるということはすなわち、小さきおのれではなく、真の「自己(=大いなる自己)」に出会いたいという要求です。さらに、それは己を生かしている「いのち」を感じ直したいという内なる要求です。
大いなるものの教えが本来の「宗教」です。先ほどの「善」の世界への道標と言い換えることができるかもしれません。
西田曰く、私たちが生きる意味は、自分が「自分」だと感じているものを育てることではなく、「自己の意識を破りて働く堂々たる宇宙的精神」(=大いなる自己)を生きてみるという実験を実践するところにあります。
実在
「実在」とは、世界の真のすがた(=ありのままの姿)であり、真理のもう一つの名前です。
西田は、実在を極めようとすることはそのまま、「神」(=大いなるもの)の認識の深化に他ならないといいます。ただし、神を頭で理解するだけでは駄目で、体を使った体験が必要です。
私たちは、どう生きるべきかに頭を悩ませますが、能動態ではなく時には受動態でこれまでの人生を振り返ってみるとどうでしょうか?
親に言われて無理やり習い事をさせられた、などという苦い経験を思い出す人もいるかもしれませんが、何ものか分からないけれども、それに「生かされている」という感覚を思い出すことがあるかもしれません。
その、何ものか分からないものが神(=大いなるもの)であり、それを体感することが西田のいう実在の経験です。
純粋経験

純粋経験とは、実在を経験することです。どこまでも対象を深く見つめ、直接的に認識することです。
しかし、世界をありのままに経験することは簡単ではありません。これまでの人生の中で培った思想、思慮分別、判断が邪魔をするからです。この三つから自由になることが純粋経験の始まりです。
「自分とは何か」を知ろうとするとき、私たちは多くの情報を外から集めようとしがちですが、西田は、自分を垂直的に深く見つめる道を提案します。その実践が、繰り返し書かれている「禅」です。
他者について知ることを「愛」とともに行うとき、すなわち他者に「いのち」を感じるとき、人はそこに叡智を見出します。それが「知と愛」の世界です。
日常で「純粋経験」を生きてみること、まだ見ぬ未来や世界に心を奪われず、己の中にすでに在るものを見つめること、それが西田哲学の基点であり、究極点でもあるのです。
最後に

西田幾多郎の『善の研究』は、愛、善、宗教、実在といった根本的な哲学的問いに対する深い考察を展開しています。
頭で考えることと同時に体を使った行為の必要性が強調されており、西田は禅を実践しましたが、他にも神社参拝をする、自宅に神棚を祀るなどでもよいでしょう。
大自然の中に身を投じ、生命の息吹を体と五感で感じるといった体験でもよいかもしれません。
西田哲学は、現代においてもなお多くの示唆を与えてくれるものであり、その洞察は、私たちが他者や自然と共生しながら「よりよく生きる」ための重要な指針となるでしょう。

