理性よりもっと奥深い「霊性(=叡智)」について

世界情勢はますます混迷を深め、「これからどのようにして生きていけばいいのか?」と悩む人も多いと思います。

「善の研究」の記事では、西田哲学から人生の指針となりうるエッセンスを抽出しましたが、日本古来の神道思想に学ぶところも多々あります。

鴨志田恒世は、「華やかな物質文明の急速な発展が人間の心を破壊し、かえって人類生存の危機を招く」と警告し、危機を回避する方法は、「人間の精神的能力を理性を超えた叡智(霊性)に至らしめ、人間に真の生きる意義と目的を与えること」であるといいました。

鴨志田恒世の著作「幽玄の世界」では、本記事のタイトルの他、神々の実在や大宇宙の存在、人間の本質や魂について言及されています。

この記事では、霊性(=叡智)の開発に先立って、まず目に見えない「神」の世界についてフォーカスし、その後日本人の「心」について迫りたいと思います。

我が国固有の民族精神は、神と自然と人間が調和して、自然と人間が笑ぎ楽しむものであり、それは、野蛮未開の人間ではなく、人類の文化の母胎としての自然人である。我が国古来の民族精神は、自然の大法のまにまに、平凡な生活の中で諸々の神秘を具現し、天神地祇と共に語り、山川草木と共に笑い、最も高い思想を最も平凡に生きることであった。

鴨志田恒世, 幽玄の世界 神道の神髄を探る, 風詠社, 2023

神について

神とは何か?

神はいるのか、いないのか?という議論が古今東西行われていますが、何を神とするかによって、その答えは変わるでしょう。

我われの遠い祖先は、春の野に芽吹く葦の生命力の偉大さに驚嘆し、その背後にある幽玄の世界を直観してそれを「神」と称しました。

日本神道の原初形態では、生命の息吹の背後にあるような自然の法則を神と呼び、自然としての山そのものをも神として崇めました。そして、聖域としてそれを汚すことをはばかってきました。

神と聞いて、髭もじゃもじゃでなんか強そうな武器を持った人物をイメージする場合、それは人間が創った神です。

もし、本当に見たんだという人がいれば、それは宇宙人だったのかもしれません。

今日まで人類が神として拝んだ神は、人間の想いや憧れが創った神であって、天地実在の神ではありません。鴨志田は、「このことを間違わないようにして、不可見界の無限次元に亘る実在と、生命の事実の世界にもっと真剣に思いを致してほしいと思う」といいます。

神の居場所

人間が人間の現実界にいるのと同じように、神様は神界にいます。

次元の違う神界から霊線が垂れ、現実界のお宮に繋がっています(残念ながら、霊線が切れている有名神社もあります)。神界につながる電話の受話器が置いてあるところがお宮と解釈することもできます。

神との対話は、その電話を使うことができる資格と能力を与えられたものが、受話器を取って「もしもし」といえば、神界で「はいはい」と応答されるようなものであるため、誰でも簡単に神と対話できるわけではないようです。

最初の神:天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

古事記神代巻において、最初の神は天之御中主神というご神名で呼ばれています。その天之御中主神の分魂は、神々、人、物、ありとあらゆる限りの森羅万象の中にあります。同時に、これを超越して全宇宙に君臨されています。

つまり、全宇宙のすべてのものにとって、この大神は主であり、親であるということです。

その大神の創造力が二柱の産霊(むすび)の大神になり、この大神たちの創造の力が、イザナギ・イザナミの神にいたって、ようやく初めて地上に肉体化されました。

産土(うぶすな)の神

我われ日本人の生活にとって、最も重要な神は産土の神です。昔から氏神や鎮守の杜と呼ばれていますが、正しくは、産土の神です。

産土の神は、神界からするともっとも下位の神で、人間からすると、もっとも人間に近い神です。それゆえに、我われの人生にとって、最も重要な関係を持っています。

産土の神が担当するのは、1.その人の寿命、2.親子の因縁、3.兄弟姉妹との因縁、4.生まれ持った能力、5.その人の祖先の状態、6.その人の過去世、7.現世で許容される経済的生活と社会的地位、8.霊魂の戸籍、9.夫婦の因縁についてなどです。

人間の運命の一切を掌握されているといっても過言ではありません。それを知ると、定期的にお参りしたくなる気持ちが自然と沸き起こるでしょう。

竜神

「竜神」については、竜神の神秘の記事でも取り上げましたが、「神」とはニュアンスが違います。

この地球を取り巻いている不可見界(=幽冥界)の中で、特に人類にとって大事な関わりがある世界の一つに竜神界があります。

竜神界は、竜の世と称すべきものであって、いわゆる神様が住む神界とは別次元です。

竜神界には火竜神と水竜神がいます。火竜神は富士山や阿蘇山などの日本の有名な火山で、水竜神は海、入江、港、池や沼、古井戸などにも存在して、千年単位の修業に勤しんでいるようです。

日本人の心

現代の風潮

明治維新以降、古来より培われてきた日本の良さを捨て、欧米流の政治や教育手法を模倣した結果、人間の社会生活に最も重要な謙虚さ、敬虔さ、感謝の念に乏しい人間が増えてしまいました。

よく言う「今だけ、金だけ、自分だけ」の精神をもった人たちです。

機械文明の進歩も人々の精神に悪影響を与えています。表面的には平和で幸福そうに見える人々も、不必要な刺激と欲望の中で健康を害し、精神的情緒不安定に陥る人も増えました。

鴨志田は、その原因を「精神文化の著しい立ち遅れによる精神と肉体のアンバランス」と考えます。

アインシュタインは、「宗教なき科学は障がい者であり、科学なき宗教は盲目である。」と言います。

正月行事にみられる神を敬う心

戦後の政治や教育に問題はあったものの、古来からある思想や精神文化がすべて消え去ったわけではありません。それは、正月行事にも残されています。

遠い昔から、日本には、五穀豊穣を司る神様(=年神、豊受大御神)が年に一度、各家庭にお出でになるという信仰がありました。この五穀を司る神様の恩恵に感謝し、この神様をお迎えしようとするのが正月行事の本来の意味です。

門松

松は神様の憑代(よりしろ)と考えられており、その玉座として常盤木の松を床の間に飾っていました。ところが、だんだん神様がお出でになるのが待ち遠しいという意味で、門口(=玄関)までお出迎えするという気持ちを象徴して、松を門口に飾るようになったのです。

鏡餅

餅は五穀の象徴です。この食物を与えてくださる年神への純粋な感謝の気持ちを象徴して、天地を祝福する意味で、二つの鏡餅を重ねてお供えします。

上の餅は「天」を意味し、下の餅は「地」を表します。したがって、上下同じ大きさが正しい飾り方です。

本来各部屋に飾るのが正しいあり方です。勝手や風呂場には低級な霊魂が集まるので、お供えすればそれらの御魂を喜ばせることができます。

屠蘇(とそ)

元日の朝に屠蘇を酌み交わすのは、ご神酒や御饌物に降り注がれた神気をいただき、霊魂の新生を得て、心身共に若返るための行事です。

祭りのあとの直会(なおらい=宴会)の形が変わって、屠蘇を酌み交わし、雑煮を食べることになりました。

お年玉

お年玉とは、神前に供えて年神の神気を注ぎ賜った餅という意味です。神気を賜った餅をいただいて、健康で若返ろうとする願いが込められていました。

ちなみに、餅を丸く丸めるのは、心の円満さを象徴しているそうです。

このようなことは、近代の合理主義的考えからすると馬鹿々々しく思われるでしょう。

しかし、日本は古来、非常に高次元な世界観、宇宙観を形成して、いわゆる現実の世界と目に見えない世界とが矛盾なく融合し、神と自然と人間が調和した心豊かな生活を謳歌してきました。

日本の惟神(かんながら)の道は、神そのまま、すなわち生命の原理そのままという意味です。その生き方は、日常生活の中で実践することであって、決して頭の中で考えるだけではなかったのです。

霊性

霊性と聞くと、冷製パスタを思い浮かべる人もいるかもしれませんが、「霊性」とは、理性よりもっと奥深い、霊妙な心の働きです。「叡智」とも呼ばれます。

叡智の世界は、古来より聖人や賢人が求めたものですが、その聖賢もそれをわがものとした人物は極めて少なく、僅かにその片鱗を垣間見るに過ぎなかったようです。

霊性は、理性の極を内面から破るところから開発されるものです。そして、その霊性にも多くの階層があります。理性の上に叡智、叡智の上に霊智、さらにその上に神智の世界があるとされます。

私にはまだよくわかりませんが、現代は知の体系が発達しているため理性が育ちやすい環境であることから、昔と比べると霊性を開発しやすい環境であることは確かでしょう。

鴨志田はいいます、「人間の精神界が、霊魂の世界と連なることによって、人間に本当の叡智が開発され、さらに人間に予約として秘められている神性が発芽し、生活の智慧が湧き、人間の幸福がもたらされるのである。」と。

最後に

人間の潜在意識を研究する学問が深層心理学です。深層心理学的観点からすると、人間の人格を形成する中核は、平面的な唯物論的合理性では到達できない、霊的領域であると言われています。

つまり、人間の本質は肉体ではなく、精神的、霊的実体ということです。「体主霊従」ではなく、「霊主体従」です。

「体」の欲望を満たすことに没頭するのではなく、常に創造的な生命の法則に従うような心の在り方をしていれば、心は常に明るく、生命感に溢れ、水の如く物事に拘らない自由闊達な心の人となる事ができます。

正しい判断や創造的能力は心の自由から生まれます。心の自由は、叡智的直観によって真理を把握することで生まれます。バイブルにもあるように、「真理は人間を真に自由にするものである」からです。

鴨志田はいいます、「人間が地上に生きる終局の目的は、その心の奥深く、神性を予約された人間の「自己発見」の道程でなければならない。」と。西田の「善」の発想ととてもよく似ていますね。

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