神道:古来から連綿と続く日本人の生活様式

神道については霊性の記事でも少し触れましたが、もう少し掘り下げてみたいと思います。

神道は、日本古来の固有の民族宗教、日本にしかない世界唯一の精神文化ともいわれています。その内容は非常に多岐にわたり、神職の間でも解釈で意見が分かれるところがあります。

したがって、この記事ではあくまで、自然と調和した穏やかな生活を送る知恵という観点から、「生き方」「美意識」「祭祀(さいし)」の内容をまとめてみようと思います。

かつて日本人は、自らの願望や欲望を果たすより先に、周囲や相手に気を配り、思いやる心を備えていた。それゆえに、願いや祈りは神へ届くと信じられてきた。祈りの前には、必ず感謝の心を捧げる。その奥ゆかしさに、日本人の真摯な姿はあらわれている。

いま、神の宿る自然と人との「共存共栄」という神道の考え方が、国際的に理解されはじめてきた。環境問題を解決に導く糸口は、日本の鎮守の森にある。

どんな困難に遭遇しようとも、日本人は幾度も立ち直る。悪しきものを祓い、身を正すおこないこそ、常に日本人の蘇りと再生への力となる。今必要なのは、まさに災厄を祓う心なのだ。

山村明義, 神道と日本人 魂とこころの源を探して, 新潮社, 2011

生き方

自然への畏れ、感謝、祈り

霊性を開発する方法の出発点は、畏敬の念を思想生活の中に受け入れることでした。そして、原日本人は、自然に対する畏敬の念を持ち合わせていました。

なぜなら、自然は、洪水や土砂崩れなどの災害を引き起こす一方で、恵みも与えてくれるからです。その自然の力に圧倒されながらも自然の中に神様を感じてそれを尊び、自然の恵みをありがたく受けて感謝と祈りを捧げてきました。

また、自然への畏れは、人が自然の異変を敏感に察知する観察力を養うことにもつながりました。

ところで、祈りというと、今日では、厄除け、受験合格、商売繁盛など個人の願望をかなえるための現世利益的な祈りが一般的になっています。

しかし、本来は自分の願望のための祈願よりもまず神様に感謝をし、そして社会や家族、さらには国家の無事安全を祈るのが正しいあり方でした。

それはきっと、自分さえよければいいという利己的な感覚よりも、利他的な感覚を芽生えさせる心の土壌を形成することになったのでしょう。

生かされているという感覚

神道には、人が自分の力で生きているという感覚ではなく、人が自然に生かされているという考え方があります。

それは、人が地上の生き物全てと連帯し、それぞれが自然の生態系と生命連鎖のなかで生きていると考えるからです。

生あるものはともに栄えるという「共存共栄」の精神があるからこそ、鎮守の森には生命が溢れています。

共存共栄・調和の理念

鎮守の森は、神社を取り囲むかたちで、広葉樹などの常緑樹を中心に、さまざまな木を植樹することで形成されます。

それはやがて豊かな森を形成し、神を祭ることによって、自然と調和しながら「縄文時代からの日本人の交流の場」となりました。

鎮守の森は共存共栄を理念としており、日本が誇る生物多様性のシンボルと呼んでも過言ではありません。

中今(なかいま)

神道には、「今を精一杯生きる」という精神が重要視されています。今この瞬間を大事にする、今ここに集中する考え方を「中今」といいます。スポーツでいうところの「ゾーン」のようなものです。

一般的に、時間軸は過去→現在→未来と流れていくものとされていますが、神道では、今が永遠に続くという考え方があり、その今に過去や未来が畳み込まれていると考えます。

過去への後悔と未来への不安ほど無駄なものはありません。考えたってどうしようもないのですから。その点、今に焦点をあてる神道の精神は、心穏やかに今を楽しむ生活の知恵ともいえるかもしれません。

美意識

禊ぎ(みそぎ)の精神

日本人がきれい好きなのは、水を使ってきれいになるという精神性、いわゆる「禊ぎ」の文化があるからです。

原日本人は、まず「清らか」であることが、神様へ近づく第一歩だと考えました。豊かな森のおかげで豊富な水が存在する、日本独特の考え方と言えるでしょう。

神社の手水舎でのお清めや、飲食店で出される「おしぼり」も実は簡単な禊です。

「禊ぎ」は、「身(み)を削(そ)ぐ」という言葉に由来すると言われています。そこには、現実的な汚れを取り払う「払拭の原理」が働いています。

禊ぎの精神があるからこそ、古来より日本人は一所懸命トイレを掃除すればいいことがあると考えました。清潔な場所ときれいな心身に、きれいな神や人間のこころが宿ると考えられたのでしょう。

近年では、片づけられない日本人が増えてきていると言われますが、神事としてのお清めだけでなく、まず部屋の掃除や片づけ等の現実的なお清めをする必要がありそうです。

祓い(はらい)の精神

「禊ぎ」に「払拭の原理」が働いているとすると、「祓い」には「代替の原理」が働いています。

祓いとは、現実的に起きてしまったことに対して、何か代替のものを差し出し、打ち消すという効果が期待されています。代替物には、塩や大幣などが使われます。

「踏んだり蹴ったり」「泣きっ面に蜂」という言葉があるように、災いは災いを呼び、禍事(まがごと=凶事)は連鎖するときがあります。そのようなときに祓いが行われます。

祓いは、曲がってしまったこと、つまり禍事を直すという概念で行われます。また、ただ直すだけでなく、それをよきものとなるよう原動力に変えていく思いも込められます。

神職による「祓い」の儀式は、あくまで災いを幸福に変える日本人の「逆転の発想」であり、心機一転して復活や再生につなげる、日本人の「生き方の技術」とも言えます。

災厄や凶事によって傷ついた精神性を再生し、蘇らせていくための日本人の叡智が「祓い」の儀式です。

しかし、祓いがあるから大丈夫と言って簡単に罪穢れを犯すのではなく、まずは自分が人としての節度を守り、なんでも貪るような心を捨て去ることが大切です。

究極の大意としての”祓い”は、人々が天意を知り、これから世の中全体がいい方向へ進んでいきますようにと祈り、自分の生活のなかの役割として考え、実践することが何よりも大切だからです。

祭祀(さいし)

「祭祀」とは、祭りのことです。「祭り」も「祀り」も、ともに「まつり」と読みます。

お祭りと聞くと、盆踊りをしたり、フランクフルトを食べたりといったことを思い浮かべますが、本来の目的は、神様と人との霊的な交流を基本として、神様に対して祈願と、報告・感謝を行うことです。

古くは、甘南備(かんなび)や磐座(いわくら)といった、山や巨大な岩石に神様が鎮座しているという信仰から、そこが祭祀の場となりました。

日本では実に多くの祭祀が行われています。宮中祭祀、祖霊祭祀、例祭、新嘗祭、祈年祭など枚挙にいとまがありませんが、ここでは、生活という観点から、家と村の祭りに着目したいと思います。

家の祭り

各家庭における節供(節句)も祭りの範囲に含めることができます。三月三日(桃の節句)、五月五日(菖蒲の節句)、七月七日(笹の節句)などでは、菱餅、柏餅、素麺などを供物として捧げます。

「敬神崇祖(=神を敬(うやま)い、先祖を崇(あが)める)」という言葉が示すように、一般的に、家の座敷には神棚、居間には仏壇が置かれ、神様への感謝と祈り、先祖供養(=先祖祭祀)が行われています。

有名神社に参拝するのもいいですが、これらを日々行うことが開運につながるとも言われています。

日常生活において、最も重要なのは、竈(かまど)神・火の神で、現代でいう台所に祀られます。窯祓いなどのご神事もありますが、まず台所をきれいに保つことが大切です。

カマ神様は、火と台所を司ることから、食物や農耕の神とされています。農家には必須の神様です。

村(里)の祭り

日本の伝統的な集落は、山、川、田、家並、神社で構成されています。

集落の背後にある山が信仰の対象になっている場合が多く、山上などに祀られたお社は山宮、奥宮と呼ばれています。また、里に祀られたお社を「里宮」、田園の中にある田の神を祀るお社は「田宮」と呼ばれています。

村(里)の祭りは、山宮から里宮に降臨した神様に供物を捧げ、奉仕することが目的です。神楽などの神事芸能が奉納されたりします。

この山宮ー里宮ー田宮の垂直軸は、稲作に必要な水の流れを示すほか、山の神・田の神の去来の道、祖霊の往来の道とも考えられていました。

最後に

神道の基本は、自然に畏敬を感じ、自然の恵みをありがたく受けて、それに感謝することです。

自然を神として祀っていたかつての日本人は、農耕(稲作)の年中行事のなかで、「祈り-感謝-蘇り」という循環を永遠に繰り返してきました。感謝と蘇りの間には、「慎み」をもって待つ、物忌みの時間を過ごしていました。

また、清らかで明るく、生活の正しい所作と実直さ、すなわち「清明正直」という美学がありました。

神道では、「目に見えないもの」への感性が大切です。現代は、物質的にはとても豊かになりましたが、かえって心が貧しくなったとも言われています。そのような時代に心穏やかに日々を送るためには、神道の考え方を日々の生活に取り入れるのも悪くはないと思います。

まずは、神棚を祀ること、先祖供養を行うことから始めてみましょう。

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